私の想い

政治になんの興味も希望も無かった普通の主婦の私が

県議会議員をめざす理由と、そのきっかけについて。

長いですがお読みいただければ幸いです。


穏やかな暮らし

私は1974年岩手県に生まれました。

高校を卒業後に一般企業へ就職。一方でプライベートで巡り合ったスノーボードの楽しさにのめりこみ、気付けば福島県に拠点を置くアマチュアスノーボーダーとしての人生を歩んでいました。

その後結婚し2人の娘に恵まれ、2008年には福島県郡山市に念願のマイホームを構えました。私はここで家族4人で穏やかに、庭仕事をしたりしながら歳を重ねていくのだと思っていました。


人生の分岐点~「このうちに戻りたい」~

2011年、そんな中で起こったのが東日本大震災と原発事故でした。

家族の無事がわかり安心したのも束の間、福島第一原発が地震による被害を受けた事により放射能による影響があるとの報道が飛び込んできました。原発や放射能に関する知識は無いものの、世間のただならぬ雰囲気から、大変なことが起こったと感じたのを覚えています。

「娘たちの命と健康だけは絶対に守る」と決め、テレビから得た知識や自分なりに勉強をしたことをもとに、対策をしながら暮らす日々が始まりました。娘たちには申し訳ないと思いつつ、外で遊ぶことを制限したり、毎日の学校への送迎、安心して食べられる食材を取り寄せたり…考え得る事は全て行っていました。

しかし、日々変化していく娘たちの体調不安を目の当たりにし、娘たちを守ることができなかった、と自責の念に押しつぶされました。

終わりの見えない放射能との闘いと子ども達の健康への不安から、被ばくのリスクを減らせると考え、2012年の春に娘2人と新潟市へ自主避難することを決意しました。経済的理由から夫は福島で仕事を続けることとなり、2拠点生活が始まりました。自分達で選んだ道とはいえ経済的にも厳しく、家族はバラバラになり辛い日々がまた新たに始まったのでした。

2017年には避難先の借り上げ住宅の補助打ち切りが決まり、経済的負担が増したことからついに福島のマイホームを手放す事を決めました。

自宅を手放すための片付けを進める途中で、娘のノートが目に留まりました。

そこには、郡山の自宅へ一時帰宅した際に娘が書き残した「このうちに戻りたい」との想いが綴られていました。そこでこれまで知ることの出来なかった娘の本当の気持ちを、改めて知りました。

ここへはもう戻る事はできないと分かっていても、ここは娘達にとって大切な場所。そんな場所から離れる事を決めた・決めなければならなかった事を申し訳なく思いました。

ぶつけ先のない怒りと悲しみに目の前が滲みました。



政治なんかに興味の無かった私


実は私は原発事故があるまで、恥ずかしながら政治には全く興味がありませんでした。政治の事なんて政治家が決めればいいじゃん、悪い方向にはならないでしょ、って。

しかし、新潟に越してきてからようやく目を向けるようになった、国会や県議会・市議会での議論の様子は、私達の暮らしや声を反映しているとは到底思えるものではありませんでした。

当時の国会では安保法案の議論がされていて、大震災と原発事故を目の当たりにしてもまだなお命の尊さを蔑ろにしながら議論を進める政治家の姿に愕然としました。「こんな議論納得出来ない」「声を上げなくちゃ」と安保法反対の活動に参加しました。そして気付けば世の中で起こっている様々な事が自分事となっていました。

当時、周りからは「変な人」と思われていたと思います。しかし「気付いた人から声を上げ、政治に関わり始めなくちゃいけない」との思いから、野党統一候補擁立の選挙へ関わりました。


1人の市民としての活動の限界

様々な活動に参加していく中で、一市民としてどんなに声を上げても人々の声が政治に反映されないことを沢山感じました。

そんな時、一緒に活動する仲間から「自分でやらなきゃかわらないよ」と投げかけられました。

私が議員?議員なんて弁護士や大きな会社の役員みたいな立派な肩書の人がなるものでしょ?普通の主婦の私が議員?しかも生活を投げ打って?むりむり。と思っていたものの、これまでの活動の中で一市民としての活動の限界を感じていたこともあり、「私が声を上げてみよう」と思い至りました。


再び、ここから

2019年の県議選では8,178票もの支援をいただいたものの、僅差で敗れました。私に期待をしてくださった皆さんの気持ちに答えられなかったと目の前が真っ暗になりました。

それでも私が今回再び県議会に挑戦するのは、地域を周る中で私に寄せて下さった「小さな声」「声なき声」を、無かった事・聞かなかった事にはできないとの思いからでした。こんなに辛い思いをされている方が、こんなに不便されている方がたくさんいるとわかっているのに歩みを止められるはずがありませんでした。

 

再び、ここから。この4年間で私に寄せられた想いと共に。

誠実に県民の声を聞き、反映させる、新潟県議会をあるべき姿に、南区から変えていきたいと思っています。投票日まであと少し。皆様からのお力添えを頂戴できれば幸いです。